ミャンマーのレーベル、イースタン・カントリー・プロダクションのカタログは、
器楽演奏ばかりかと思っていたら、ミャンマー伝統歌謡の大御所
マーマーエーのアルバムがあったのは意外でした。
今日びミャンマー国内でこれほどしっかりと制作された古典歌謡は、
めったにリリースされないので、貴重な1枚です。
最近またエル・スールに入荷したようなので、
ミャンマーの伝統歌謡好きの人にはオススメします。
あらためて、マーマーエーこと本名エーミンの経歴を振り返ると、
まだミャンマーがイギリス支配下だった1942年7月26日、
フネー(ダブル・リードの笛)奏者の父ウー・エーと、歌手の母タン・ニッのもと、
南部イラワディ川下流大デルタの町ミャウンミャに生まれます。
母親の芸名がミャウンミャ・タンだったのは、
町を代表する歌手だったことを想像させます。
マーマーエーは8歳から歌い始め、13歳の時に歌った
“Thet Tan Paw Hmar Kasar-mae” が大ヒットとなり、一躍有名になります。
無声映画の時代から映画の挿入歌を歌い始め、
80年代までにミャンマー映画の8割近くを歌い、
彼女が残した録音は、6000曲以上に上るといいます。
歌手としてだけでなく、映画にも3作出演し、自伝的小説を2冊著しています。
さらに歌手として名声を得たのちは、後進の育成のために、
マーマーエー財団、歌手養成アカデミー、音楽出版社を設立し、
レコーディング・スタジオの運営にも携わりました。
ビルマ国営放送(BBS)で16年間要職を務め、国立音楽協会の一員となるなど、
名実ともにミャンマー音楽界の大物になったマーマーエーでしたが、
89年、大きな転機が訪れます。
ソウ・マウン率いる軍事クーデターによって体制維持を図った軍部は、
マーマーエーのアルバムをすべて発売禁止処分とし、
歌も放送禁止にして、マーマーエーの名をマスコミの場から抹殺したのです。
アウンサンスーチーが自宅軟禁されたのと時同じくして、
軍部は芸能者たちにも、容赦ない圧力をかけたのでした。
こうして多くの歌手同様、マーマーエーも98年にアメリカへ亡命します。
インディアナのフォート・ウェインに落ち着いたマーマーエーは、
ミャンマーの民主化運動に関わり、
民主化運動のキャンペーン・ソングなども歌うようになります。
08年には、サイクロン災害救援の募金活動をするなど、
軍事政権下で救援の手が届かない人々のために尽力しました。
少し長くなってきました。続きは次回にしましょう。
Mar Mar Aye "THE PLEASANT MORNING SONGS" Eastern Country Production no number