昨年暗殺された、エチオピアのオロモ公民権活動家で、シンガー・シングライターの
ハチャル・フンデサの遺作が、初命日となる6月29日にリリースされました。
ハチャル・フンデサは、86年、オロモ人の抵抗運動の拠点
オロミア州アンボで、貧しい家庭の五男に生まれました。
牛の世話をしながら、学校のクラブで歌いながら育った少年でしたが、
17歳のときに、オロモ解放戦線(OLF)を支援する
学生運動に加わったという嫌疑で逮捕され、
逮捕後の正規な手続きを経ずして、5年間もの獄中生活を送ります。
当時オロモ人は政府から激しい弾圧を受けていて、
オロモ解放戦線(OLF)の活動も禁止されていました。
ハチャルは5年間の刑務所生活で、
同じ受刑者のオロモ公民権活動家から多くを学び、
政治的なアイデンティティを形成していきます。
読書をしながら音楽を作り、釈放されたときには、
すでにファースト・アルバムとなる曲の多くが出来上がっていました。
09年に出たデビュー作“SANYII MOOTII” は、記録的なヒットを呼び、
ハチャルはわずか22歳で、オロモ人の新しいスターとして、
国民的な人気を勝ち取ります。
そして、15年に出したセカンド・アルバム“WAA'EE KEENYA” で、
ハチャルはオロモの文化的アイコンへと大きく成長します。
オロモ農民の土地を収奪するアディス・アベバの拡張計画に抗議した
シングル曲‘Maalan Jira’ が発売されると、オロミア各地方でデモがたちまち発生し、
この曲はアディス・アベバ拡張に抗議する市民のアンセムとなりました。
ゲラルサと呼ばれるオロモ抵抗運動のプロテスト・ソングによって、
ハチャルは人々に政治的覚醒をもたらしたのです。
その後、反対運動が実って、アディス・アベバ拡張計画は頓挫し、
オロモ革命のサウンドトラックとなったハチャルの歌は、
エチオピアで初のオロモ人首相を18年に誕生させる、大きなエネルギーとなりました。
昨年6月29日の夜、アディス・アベバ郊外のコンドミニアムでハチャルは銃撃を受け、
ティルネシュ・ベイジン公立病院に運ばれますが、帰らぬ人となりました。
死の一週間前には、殺害予告を受けていることを、
ハチャルはインタヴューで明かしていました。
ハチャル死亡を聞きつけた数千人の弔問客が、
ティルネシュ・ベイジン公立病院に押し寄せ、
警察が催涙ガスで群衆を解散させる騒ぎとなったほか、
葬儀においても治安部隊が2人を射殺し、7人の負傷者を出す騒ぎとなりました。
その後も、オロミア地方の各地でハチャル銃撃への抗議活動が頻発し、
約160人の死者が出ています。
エチオピアから遠くロンドンにおいても、ハチャルの死の翌日の6月30日に、
ウィンブルドンのカニサロ・パークに置かれたハイレ・セラシエ皇帝像が、
オロモ人抗議者によって破壊されました。
オロモ文化を体現し、文学性の高い詩的な歌詞によって、
オロモの民衆の心をつかんできたハチャルでしたが、
その音楽はオロモのコミュニティに閉じたものではなく、
アムハラや他の民族にもアピールする音楽性を有しています。
ときにアムハラ語に由来する文学的修辞も使いながら、
すべてのエチオピア人にアピールしようとしてきました。
そうした姿勢は音楽面にも表れていて、
本作にコンテンポラリーなレゲエ・サウンドで聞かせる曲や、
マシンコ、ワシント、クラールをフィーチャーした曲があるように、
エチオピア人すべてが共有できるサウンドを使いながら、
エチオピア最大の民族でありながら迫害され続けてきた、
オロモ人の問題を訴えているんですね。
ハチャルが民族を越えて、多くのエチオピア人に愛されたのは、
共感に満ちた人間的魅力にあったと聞きますが、
細やかにこぶしを使って歌うハチャルのヴォーカルには、
人を包み込む温かさがありますね。
情感に溢れたその歌い口は、歌詞のわからない外国人には、
とてもプロテスト・ソングと思えないほど朗らかに響きます。
洗練されたデザインに、美しい印刷の5面パネル仕様の特殊パッケージは、
エチオピア製としては破格のもの。オロモのカリスマとして、
エチオピア社会に偉大な足跡を残した歌手の遺作にふさわしい意匠です。
Haacaaluu Hundeessaa "MAAL MALLISAA" Wabi no number (2021)
【追記】ミュージック・マガジン今月号の輸入盤紹介でもレヴューしていますが、
デジタル・リリースという表記は編集部による誤りですので、ご注意ください。