ギルマ・ベイェネのフル・アルバム!
お~、そこに目をつけるか。う~ん、さすがはフランシス・ファルセトですね。
エチオピーク・シリーズ30作目にして、
ついにエチオピア音楽黄金期の影の立役者にスポットが当たりました。
日本盤のタイトルが『復活!エチオ・ポップのゴッドファーザー』というのも、
付けもつけたりで、なかなか感慨深いものがあります。
ギルマ・ベイェネは、まだ高校生だった62年にラス・ホテル専属の
ラス・バンドのオーディションに合格し、歌手としてキャリアをスタートさせた人。
オーディションで歌ったのが、パット・ブーンのヒット曲だったというエピソードは、
今回初めて知りましたけれど、相当にアメリカン・ポップスかぶれだった人で、
ラス・バンドでは洋楽カヴァーを英語で歌う歌手という役回りを演じました。
ちなみにラス・バンドには、もう一人の歌手バハタ・ガブレヒウォットが
アムハラ語やティグレ語の曲を歌い、バンドの二枚看板となっていました。
ギルマは歌手として活躍するかたわら、ラス・バンドのピアニストからピアノを習い、
作曲やアレンジの勉強をして、65年にラス・バンドが再編されると、
バンド・リーダーとなり、歌手、ピアニストだけでなく、
作編曲にも才能を発揮するようになります。
この第2期ラス・バンドには、
ムラトゥ・アスタトゥケがヴィブラフォンで参加していたんですよ。
正規の音楽教育を受けたエリートのムラトゥより、
独学でピアニストになったギルマの方がエラかったわけですね。
じっさい、当時二人がアレンジした曲を数えてみても、
ムラトゥが40曲ほどだったのに対し、ギルマは60曲以上を手掛けていたのだから、
やっぱりギルマの方がエラかった(?)。
冗談はともかく、ギルマ名義の録音が69年にアムハへ残した4曲しかないのは、
歌手としてより、ピアニスト、作曲家、アレンジャーとしての道を歩むようになったからで、
70年代に入ると、ギルマス・バンド、オール・スター・バンドを率いて、
スウィンギング・アディス時代のサウンド・クリエイターとなったのでした。
ギルマの仕事でなんといっても有名なのは、
アレマイユ・エシェテと組んで残した名曲の数々で、
ロカビリー、R&B、ファンクを取り入れたファンキー・サウンドは、
アメリカン・ポップスに通じていたギルマならではの仕事だったんですね。
はじめに、ギルマについて「感慨深い」と書いたのは、
拙著『ポップ・アフリカ800』にギルマ・ベイェネの名を載せておきたくて、
いろいろと工夫した記憶が残っていたからです。
バヘタ・ガブレヒウォットのアルバムでギルマについて触れ、
ギルマ名義のアムハ録音4曲ほか、ギルマがアレンジした曲を多数収録した
“ÉTHIOPIQUES 8 : SWINGING ADDIS 1969-1974” を掲載するほか、
索引にも「ギルマ・ベイェネ」を載せるなど、選ぶアルバムがないゆえに、
きちんと触れておくべき音楽家と考え、配慮した覚えがあります。
ギルマは80年代初め、ワリアス・バンドでアメリカ・ツアーに出たまま、
アメリカへと亡命します。当時のメンギスツ政権下のエチオピアでは、
伝統音楽が奨励され、地方の音楽が見直される一方で、
西洋的な音楽が排除されるようになっていたので、
ギルマにとっては、自分の活躍する場がなくなったと感じていたんじゃないでしょうか。
長いキャリアを背景に制作されたギルマの初アルバムのバックには、
フランスのエチオ・ポップ・バンド、アカレ・フーベが起用されました。
アカレ・フーベは、往年のエチオ・サウンドを打ち出す
レア・グルーヴなセンスと一線を画していて、
それがかえって、アメリカン・オールディーズに触発されて生まれた
ギルマの個性とよくマッチしています。この起用は成功しましたね。
ジェントルなヴォーカルやジャジーなピアノ・プレイが、
ファンキーなサウンドの中で滋味な味わいを醸し出していて、
かつて録音した4曲も、新たな解釈を加えて再演されています。
クールなアフロ・ファンクの長尺曲など、洗練されたサウンドが、
ギルマのマルチな音楽性を鮮やかに引き出した、懐の深いアルバムです。
Girma Bèyènè & Akalé Wubé "ÉTHIOPIQUES 30 : MISTAKES ON PURPOSE" Buda Musique 860303 (2017)